スポンサーサイト

上記の広告は90日以上記事の更新がないブログに表示されます。新しい記事を書くことで、こちらの広告が消せます。

  

Posted by おてもやん at

2024年01月04日

国宝 通潤橋

通潤橋が国宝になった

指定が大きくなるほど、一般の人が近づけなくなった
あんなに無造作に歩いていたのが嘘のように

井上清一先生や飯星時春さん、山口祐造さんも加わって
「通潤橋が国宝になったぞ」と笑顔で話してるかもしれない

通潤橋のモデルになった柏川井手の雄亀滝橋や
緑川の本流に唯一かかる霊台橋はよく知られている
「矢部井手」のことを知る人は少ない

通潤橋にたどり着くのに
雄亀滝橋や霊台橋
宝暦の改革
堀勝名
細川重賢
重賢が藩主となる事件「もう一つの殿中でござる」

  


Posted by 小さな魔法使い at 00:35Comments(0)想ったことなど石橋

2020年05月21日

文集 みさと から

天池(あまがいけ)奇譚(きたん)


熊本地震で解体された母方の祖父の家の大叔父の部屋から見つけた、遺品の日記と手紙などから綴ったものです。

⑴ 浅井先生

 叔父と呼んでいますが、母のいとこになり大叔父になります。大学教授を退職した後ずっと独り身だったので母が時々世話をしていました。ほとんど面倒をかけることもなく、長く寝付くこともなく亡くなられたので、明るい葬儀でした。叔父の葬儀が終わって片付けが始まった頃、10人ほどの弔問の方が遅れて見えられました。
「叔父さんに昔担任していただいた、天池分校の教え子のみなさんだそうよ、あなたご案内してあげて」母に言われて、その初老の方たちを控室の叔父の位牌の前に案内しました。代表の方らしき人が「遅くなってすみません。」と言葉をかけながら、静かに手を合わせられました。
 お茶とお菓子を出しながら様子をうかがっていました。
「この先生の写真若いね」
「やはりおかしいですか?叔父の写真いいのが見つからずに、だいぶ若い頃の写真みたいなのですよ」
「いいえ、いい写真ですよ」
「いい男はいつまでも若いんだよ」
 少し明るい話題になった頃、「叔父は小学校の先生をやっていたのですか?」と聞いてしまいました。
「私達が小学校3年と4年のときに担任してもらいました。もう50年以上も前の話です。」「若くていい先生でした。その後、浅井先生ほどいい先生には恵まれませんでした。」
「浅井先生が外国に行って有名になって、私達は嬉しかったです」
「分教場の閉校の時も副田校長先生の葬式の時も、先生はアメリカだったから来られなかったしなあ」
「5年前の還暦同窓会には来てくださったから、50年ぶりくらいに会えたね」
「みんなで分教場のあとに行ったら、桜の木が残っているって喜んでいたよね。」
「下宿していた神木家が素敵なレストランに変わっているのにも驚いていたね」
「あの、天池分校ってどこにあるのですか?」



⑵ 天池[あまがいけ]

 天池村は熊本県と宮崎県と大分県との県境に近い村で、小さな金鉱山があったことで有名な宝山市の西側の峠の下にあります。大きな川沿いに走る国道の大きな榎の木のあるお堂に「天池入り口」のバス停があります。そこから川沿いに1キロほど上流側に歩くと、崖と崖の間から小川が合流しています。小川の横の細い道を東の方に歩いていくと視界がひらけ、そこが天池村です。
 「浅井先生が来た日を覚えてますよ。ばあちゃんが『桜の天女さんが今年は早く目覚めた』って騒いで、お神酒をあげたり神社にお参りに行った朝だったから」
「そうそう、あの年は桜が早く咲いたって大騒ぎだったなぁ」
「分教場は学校というよりも、遊び場だった。時間があれば、遊んでた。入学する前から、みんな行ってたから」
「いつも入学式に咲くんだけど、その年は四月になるとすぐ桜が満開になったんだ。」
「先生は、すぐ私達と仲良くなってくれて、荷物だけを下宿先の神木のお屋敷に運んでもらって分教場を一緒に探検しましたね」
「分教場の裏の高台から見下ろすと運動場いっぱいに桜の花が咲いていた。ほんとに桜の天女様が舞い降りたぞ〜ってみんなで大声で村中に届くように叫びました」

「ここからだと村がよく見えるね。村の入口に分校はあるんだね。分校と神木家と神社は一直線に続いているんだね。ところで、その桜の天女って何だい?」
「先生はしゃがんで、同じ目線の高さで聞いてくれました」
「一度に桜の花が咲くとそういうんよ!」
「それにしてもこの村はきれいだな。桃源郷という言葉があるけれど、これは桜源郷だ」
「今年の桜まつりは賑わわないよなあ、桜がもたないもん」
「男先生を歓迎しているんだよ、こんな山の中に来てくれたから」
「私は男先生ではなく浅井、浅井先生だよ。」

「先生は神木先生の家に下宿しとったけど、一緒に来ることはなかったなぁ。いつも浅井先生が早くて、女先生は遅かった。」
「浅井先生は何でも出来たけれど、女の神木先生はあんまり教えるのが上手ではなかった。けど、年は女先生が上だとばあちゃんが言うとった。」
「それまで夫婦で来ていた先生が急にやめることになったので、仕方なく女先生が来ることになったと神主先生が言うとったなあ」

「体育の時間と音楽の時間は男先生が一緒に教えてくれていた。女先生はオルガンは上手だけど、歌は上手ではなかった。」
「浅井先生は、教科書に乗っていない歌も教えてくれた。本校に行ったとき、本校の生徒たちがそんな歌も知っているのかとびっくりしていたもんな」

 天池分教場は、正式には金鉱山のある宝山小学校天池分校です。1年生から4年生までがここで学び、五年生になると本校に通うことになるのですが、皆寄宿舎生活になります。本校に行くには、小川を下って国道のバス停まで行って、バスに乗って終点まで行き、違う路線のバスに乗り換えていくけれど、時間がかかりすぎるのです。神社の裏から峠を越えていくと約六キロ、子供の足でも一時間半ほどで行き来できるので、子どもたちはほとんど土曜日の午後峠を越えて家に帰り、月曜日の朝早めに神社の境内に集まって上級生たちと一緒に学校に行くことになっていました。
 

⑶ 神木家

 神木家は分教場の東の丘の上にあり、大きな玄関に続く坂道には、両側に欅の大木が並んでいます。石垣が積まれ、その石は川の石のようで、丸くなっています。後で聞くと、宅地に開く時に出てきた石を使ったようでした。それは、わからないほどの昔だという事でした。棚田も同じような石が使われていました。
 家の敷地にも何本もの欅があり、神木という名字はそこから来たのだろうと思われます。その神木家から続く森の奥に天池神社があります。
 丘の奥の奥にある天池からの小川は丘の裾を流れて棚田を潤し、分教場の横を流れています。小川の土手には、梅や桃、枇杷、柿などの実がなる木がたくさん植えられていて、季節ごとに子供たちを喜ばせてくれています。小川沿いには棚田は思いがけなく広く重なって天池の村を豊かにしてくれています。
 神木家は山の向こうに小さな金鉱山を持っていて、そこに事務所を兼ねた家があり当主はほとんどそこで生活していました。この天池の家には、村の人たちが出入りするだけで、大きな家の割にはひっそりとしていました。
 私が当主に会ったのはここにいた2年4ヶ月で大きな行事のあった数度しかありません。私は、夏休みや冬休みはこの村にいないので、大きな行事はほとんど知りません。
 私が神木家で使っていた部屋は、離れになっていて玄関から風呂やトイレ炊事場など、家としての全てが揃っていました。先々代が当主としてご先祖さまより長く在職してはいけないからと、当主の座を引いて隠居していた一戸建てだったのを、先代が渡り廊下をつけて母屋からも行けるようになっていました。
雨戸のついた広い回り縁の家は生活しやすく好きな部屋でした。もちろん雨戸が締められる時もありますが、それは私が開け閉めすることはありません。住み込みの使用人夫婦がいて、この家の事は、雨戸の開け閉めや部屋の掃除まで全て仕切ってくれていました。無理を聞いてもらって来ていただくからと、部屋代食事代一切なしの気楽な贅沢な下宿生活でした。
 
⑷ 桜まつり

 天池分教場の2年目は入学式の日に桜まつりが行われました。入学式が始まる前に神事は行われるので、入学式には神主も神木家の当主も来賓として出席していました。
 桜まつりは村中が集まる大きなお祭りでした。神事は天池神社で行い、直会は分教場の桜の下で行われました。
 男性は神事を終えると、分教場の物置からむしろと長台を桜の木の下に手際よく敷いたり並べたりします。女性は神社に来ることはなく、それぞれの家でお祭り用の料理を作り持ち寄るのです。神社の神事にお供えする料理は神木家が準備するとのことでした。供えられた料理は直会の場に運ばれてきましたが、その豪華さには驚かされました。鯛や伊勢海老まであり、山の中だからこそのお供えなのだろうかとおもいました。樽酒も運び込まれ、子どもたちも含め村中がお祭り一色になりました。
 私も1年が経ち、村の人達とも知り合い村の空気にも馴染んできていました。夕方から始まった桜まつりは最初から無礼講です。好きなだけ飲み、好きなだけ食べ、誰彼となく歌い、誰彼となく踊りだします。「男先生・男先生」と誰も彼もが酒を注ぎにきます。「太郎の父です」「太郎の叔父です」はまだしも、「太郎の母の実家の嫁の実家です」となると、どのような関係なのか整理がつかないけれど、ただ話しかけるきっかけが欲しいだけなのです。
 いつしか1人去り2人去りして気づいたら桜の花をまとって薄っすらと夜が明けようとしていました。飲みすぎた、飲まされたと思いながら、何かいい夢を見ていたような気がして仰向けになると、桜がハラハラハラハラと散ってきました。振り払うのが面倒くさくてそのままにしていると、桜の花にくるまれていくようでした。
 朝早く来た子どもたちに起こされて苦笑したものです。
 1年で終わると思っていたにわか教員も3年目を迎えました。この年も桜まつりは入学式の日でした。この村にも桜まつりにもすっかり慣れて、入学式が終わると一度部屋に帰り気軽な服に着替えてくることにしました。それを見た村の人達は喜んでくれて、相変わらずの楽しい宴になりました。また、酔い潰されそうだと思いながら杯を重ねてしまいました。
 鼻腔だけが目覚めている感じでした。薄っすらと目を開けると眼の前に神木先生が座っているようでした。「神木先生」と声を出そうとすると、人差し指で私の唇を「しー」と言わんばかりに抑えました。女先生とは違うと感じました。では誰だろう?甘い香りが立って、以前にもこの甘い香りは嗅いだことがあるような気がしているのですが、思い出せません。そのうち。頭が朦朧として考えるのが面倒になりました。甘い香りの中で、満ち足りた時が過ぎました。
 3年目に入ってしまって、もう大学に帰ってもいる場所がないなあと思ったこともあって、余計飲みすぎたのだと思いました。

 翌日、また子どもたちに起こされました。「あれ、夕べ風がひどかったのかなぁ、桜が散ってしまっているよ」
「桜の天女様が降りてこられたんだ、きっと」
「桜の天女様って何だい?」
「詳しいことは知らないけれど、何十年かごとに遊びに来られて桜の花と遊ばれるんだと」「だから天女様が来たときは、一気に花びらが落ちてしまうんだ」
「神主さんのばあさまが、桜の天女様はお婿さん探しに来るんだそうだ」
「先生、天女様を見なかったのか?」
「ば〜か、先生は酔っ払って寝てたから、見れるはずないじゃないか」
「もったいねえことしたなあ先生」
 桜の花が一気に散って甘い香りがしたのだ、それにしてもいい夢を見たのだと花びらの少なくなった桜の木を見上げました。
 神木家に泊まっていた副田校長が坂道を降りてきました。「浅井先生、桜の花まみれではないですか。」と笑いながら、急に真面目な顔になって「今日は神木先生は体調が悪いから、私が代わりに授業をすることにしましたよ。本校には連絡しておきました。」「はあ」と生返事をしながら、どちらかといえば深窓の令嬢とでもいうような神木先生には、わんぱく盛りの小学生は持て余すのではないかと危惧していましたが、一緒に努めていて素直な真面目な人だと安心できていました。神木先生も、こんなに長く務めるはずではなかったと思われているのだろうと、気の毒でもありました。

⑸ 天池を去る

 世間が空梅雨で水不足が取り沙汰されても天池の水は枯れることもなく田植えなどの作業ははかどっていました。ただ、例年になく天池神社での神事は多く、お参りの人たちもそれに比例して多くなっていました。中には、久しぶりに来たからと分教場を覗いていく人が多いのには困りました。対応する教員がいなく、男性である私が呼ばれることが多いのでした。
 そのせいではないのでしょうが、神木先生が体調を悪くされ目に見えて痩せていくようでした。副田校長も心配して何度か分校を訪れてくれました。
 七月になってすぐに副田校長がやって来て、「浅井先生、二学期から夫婦で赴任してくれる先生が見つかりました。長い間ありがとうございました。お父上にもご連絡しました。」と真っ先に伝えてくれました。私も神木先生も一学期で分教場の先生が終わることになりました。また、大学に戻れるとほっとすると同時に、ここを離れることが寂しくもありました。
 終業式の前夜、私のお別れ会が内輪で開かれました。副田校長、天池神社の青木神主、神木家の当主と神木緋紗子先生、私の五人でした。いつもは囲炉裏を囲む部屋での会食が多いのですが、この日は大きな神棚のある奥の部屋でした。神木家は亡くなると神になる神道とかで仏壇はありませんでした。
 神木先生は、相変わらず体調が悪そうでした。今年は空梅雨で暑い日が続いていました。もともと華奢な体の先生なのでそういうこともあるのか、一学期で教職を離れられるのはいいことだと思いました。
 まずは神事が行われます。青木神主が神事を司り、隣の部屋に用意された膳を囲みました。「浅井先生ありがとうございました。一年一年と伸びてしまって申し訳ないことをしました。」校長先生の言葉に、終業式なのにわざわざ校長先生が来たのは、自分に対する申し訳無さ、ひいては父に対する謝意もあるのかと納得するものがありました。いつもは陽気な天池神社の青木神主の「天池の神もお慶びでございますなぁ」と泣き笑いの言葉には、いくらなんでもと違和感を抱かずにはいられませんでした。当主は始終無口で神木先生は気分がすぐれないからと、途中で部屋を出ていかれました。だからと言って居心地が悪いものでもなく、注がれる酒を飲んでいました。
神木家の当主をはじめ、青木神主、副田校長はどうやら父とは旧知の仲であることが会話の中で感じ取ることが出来ました。副田校長が父に頼み込んだとばかり思っていましたが、まるっきり知らない人の息子でもなかったので、この分教場での生活が、村の人達にも自分にもすんなり受け入れられたのだと、去る事になって初めて知った自分の迂闊さがおかしくもありました。参加の皆が私に感謝の意を表してくれ、ついつい飲みすぎてしまいました。
最後かと思うと飲みすぎて酔ってはいましたがなかなか寝付かれませんでした。庭に引き込まれた流れの音が心地よく涼味を誘い、蛍がすーいすいと飛んで木の陰に消えていきました。
 暑かったので、回り縁の障子は開け放したままでした。
 あの夜の香りだとうつらうつらとしていた脳が、一気に覚醒しました。目をゆっくりと細く開けると、すぐ目の前に女が座っていました。ハッとして布団の上に座りました。「ありがとうございました。ここで起きたことはすべてお忘れください。そしてお幸せにお過ごしください。」ゆっくりと頭を下げたのは先ほど別れた神木先生でした。「神木先生、緋紗子先生、やはりあの夜は夢ではなかったんですね。」思わず取った手は柔らかく冷たく、長い時間ここに座っていたのではないかと思いました。「すべて忘れてください。夢だったのだと」「あの夜のことが夢でなかったと分かったからには、また帰ってきます。」「いいえ、それは出来ないことなんです。私は天池の神子です。」

⑹ 外国へ
 
 終業式が終わり、子どもたちとのお別れも終わって私は副田校長先生の小さな車に同乗して天池を離れました。
 天池という湧き水のある池から流れる小さな小川に沿った狭い道を走っていくと徐々に両脇の丘が迫ってきて視界が狭くなっていきます。小川と道だけの幅しかない両側から崖が迫るせまい空間を通り抜けると、大きな川に突き当たるのです。この狭い空間が、普通の社会と別天地と私が思う天池とを隔てていると通るたびに感じていましたが、もう来ることはないだろうか?と感傷的な気持ちになりました。

 大学に帰った私は、すぐに学長に呼ばれました。学長室には父も同席していました。「浅井君、9月から国から派遣する研究生としてハーバード大学に行ってくれないか、というよりいくことになった。」「私がですか?」「今この大学で一番フリーなのは君だと浅井先生が教えてくれたからね。」「英語うまくありませんよ。」「それも分かっているよ。全て浅井先生に伝えているから大丈夫だ。」あまりの展開に呆気にとられていると、後はよろしく頼むよと学長は席を外しました。
 研究者を交換するということは政治的な思惑も働いているらしく、まず一人を送り込み、その後希望者を募って派遣する段取りになっている。誰を送り出すかとなったとき、誰もがお前の名前を挙げた。私も皆に無理を言ってお前を友人の副田校長のところに出していたから断れなくて、すまないが行ってくれないか。ひと月前にはあちらに渡り、英語も学ぶ環境が整っている。あまりの段取りの良さに不信感を持たないではありませんでしたが、二年も留守にしていた研究室に帰って居心地の悪さを味わうよりはと、承知してアメリカに渡りました。
 結局、毎年やってくる研究生を迎え送り出ししながら、私はその大学に職を得て30年以上過ごしました。結婚話もないことはなかったのですが、なかなか踏ん切れなくて一人のままでした。そのうち、面倒くさくなって。

⑺  天池にて

 熊本地震で浅井家が半壊となり取り壊すことになりました。地震が起きたのは叔父が亡くなって半年後のことです。そのままになっていた叔父の遺品の整理をすることになりました。遺品といってもほとんどが書籍で、大学の関係者が取りに来られるので私的なものの整理をすることになりました。母と二人で部屋を見ましたがきれいに片付けられて、何もありそうには思えません。それでも形通り部屋に入り見回しました。縁側に向かう障子のある面だけが空き、それ以外は入り口を除いて本棚が天井近くまで塞いでいました。本の間に少し大きめの文箱がありました。机の上におろして蓋を取ると「象彦」銘があり「お母さん、この文箱いただいてもいい?象彦さんの作品なのよ」と聞くと「何が入っているの」「お手紙みたい」「そのお手紙はきちんと処分しなさいよ」と持ち帰ることを許してくれました。私が持ち帰りたいと思ったのは、中に「天池神社御守」という文字が見えたからでした。
 地震の翌年、私は連休に天池村に行きました。もう少し叔父のことを知りたいと思いました。
教え子という方に連絡しましたら、何人かが一緒に分校跡に行ってくれることになりました。
 入り口は狭いけれども、道路は広くなっています。昔は峠で越えていた宝山へも、長いトンネルが出来て昔とは大違いです。
分校は無くなっていましたが、裏の高台は残っていました。高台から見下ろすと葉桜になった木が枝を大きく広げていました。流れる小川は「春の小川はさらさらいくよ♪」のモデルになったのではないかと思いました。棚田の重なりの奥に集落がぽつぽつとあり、その背後の山は一昔前の薪炭林のままでした。
 「ここは時間の流れが止まっているみたいですね」
というと「最先端の集落だと視察や研修に来られる人達が多いですよ」と言ったのは弔問に来てくれた女性でした。
 金鉱山で必要だからと、拡大造林の時も杉桧を植えなかったと聞いています。それは言い訳で、当時金の採掘は行っていませんでしたが、山の形を変えると天池が干上がるから変えてはいけないと言われたようです。それが、いまは豊かな食材の産地になっています。狭いけれど山葵田もあります。減反政策が始まった時も、果樹や山菜、野菜の栽培を始めています。トンネルができると、宝山市に直売所を作り、今では道の駅になっています。今は、レストランの食材にもなっています。
 
 「浅井先生は格好よかったですよ。村には若い男の人なんかほとんどいなかったから。」
「なんで、若い人がいないのですか?」
「みんな山の向こうの天池村の寮から、学校に通うようになるから。」
「大人は、あなた達のお父さんやお母さんは、何をしていたの?」
「あんたはほんとに浅井先生の親戚かい?」
「母の叔父に当たります。けど、叔父から話を聞いたことがありませんでした。叔父にあったことも数えるほどしかないんです。叔父は結婚しなかったので、母が時々掃除に行っていました。けれど、昔に分校の先生をやっていたなんて、知りませんでした。叔父のことをもっと知りたくなって、叔父の縁の天池にも来てみたくなりました」
 連れ立って天池神社にも行きました。今は神主のいない神社になっていますが、きれいに掃き清められていました。
 「天池と神社は当番を決めて管理しているし、行事は昔ながら似続けているよ。桜まつりの直会は今は神社の境内でやっているけれどね」
 来てよかったと思いました。遠い存在だった叔父がここで体験したことはなんと素敵なことだったのだろうと思いました。

⑻ 天池奇譚

 これは天池村の天池分校に奉職していた時に出会った奇妙な体験です。
けして公にするべきことではありませんが、老いて天池神社に行った時に、白髪の青木神主から受け取りました。
 神木先生の遺書ともいえるものです。これを受け取っても、神木家がどうなっているのか確かめることはありませんでした。


 浅井先生へ 
 神木家の血縁の娘は神子として神に仕えます。神社の巫女のように人と違う暮らしをするわけではありません。普通に暮らしながらも、一生結婚することはありません。
 神木の家は代々水を祀ってきました。神木という名字を名乗っていますが、先をたどれば、中国の河神であり龍が祭神だそうです。この世が人の知では治められなくなった時の為に、私たちに託されたものがあるそうです。それが何なのかは私も知りません。また、迷信だと言われればそうかも知れませんが、私たちの代で絶やすことは出来ません。それは、この神木家だけの問題ではありません。
 私は幼い頃からそれを聞かされて育ちました。こちらではなく、京都の親戚の家から学校に通い大学も出ましたが、それは関わる人を少なくするためだったのです。兄が神木の家を継ぎ、私は神子になっていました。
 先の戦争で兄が戦死したことが全ての始まりでした。幾日も、幾日も関係者が集まって協議して、遠い昔の例を探し、神のお赦しを得てほんのいっとき神子のお役を降ろさせていただくことになりました。
 だからといってどなたかと結婚することは出来ません。そこでえらばれたのが浅井先生でした。まるっきり関係がない家ではないからということでした。誰にも不審がられない状況を作り出し、ここを去られた後までも準備されてことは始まったのでした。
 いくら神の許しを得たといっても、すぐにそうなることは出来ません。先生と同じ屋の下に暮らし、ご一緒にお仕事をして、私は心から先生と結ばれたいと願いました。
 最初の桜まつりのときにはどうしても先生に触れることは出来ませんでした。次の年には、先生とこのままどこかに行きたいとさえ思いました。許されないと分かっていながらも。
 神に赦していただいて授かった男子は無事に元気に育ちました。私は再びまた神子に戻りました。ひとたび神子になったものは、人ではないのです。

この天池村の場所も神木家のこともあきらかにすることは出来ません。
 
おわり
  


Posted by 小さな魔法使い at 00:09Comments(0)つづりかた小説もどき

2020年05月15日

「文集みさと」から

コロナ禍で自宅待機が続きます。

季節は巡り農作業も例年と変わりません。

自宅待機の日々
思い出して「文集みさと」の投稿した小説の下書きもどきを


2064年の出来事
 
プロローグ
未曾有の大災害が日本を襲い、その影響は全世界に及びました。世界中が原子力の脅威を身を以て体験し、その廃棄に向かって動き始めています。そんな中、日本は本気で首都機能の分散を始めました。12年前の「日本大震災」から立ち上がりつつある今こそやらねば、できると政府や省庁、国民が思ったのでした。ワンチーム日本になりました。ワンチーム地球といったほうがいいかもしれません。その時に前回の首都機能移転先の調査が行われる事になりました。絶対安全だといわれていた所がなぜ崩壊したのか、その原因調査は必要でした。専門家や学者はもちろん、希望者を公募しての調査隊を組みました。公募をしたことで、国民は本気度を確認したのでした。

調査隊の先遣の一団10人が「そこ」に入ったのは秋の終わりでした。秋の終わりとはいえ、まだまだ昼間は暑さが厳しく、一番標高の高いところから始めました。調査隊の宿泊所として活用できるようにするのが彼らの役割でした。静かな紅葉の始まった林に囲まれたそこは河望総理の両親が住んでいた一角でした。「日本大震災」の後、2人とも病没して誰も訪れてはいませんでした。誰もが、「こんな家だったのか?」と驚きました。「高級ホテルのスイートルームのようだ」と行ったのは、それを知っている男性でした。「スイートルームはこんなんですか?」と聞くものもいました。ほとんど被害も受けていません。「たしか。地下室があるはずだが」地下室には広いスロープが付いていて、広いスペースがありました。整然と片付けられていました。その隅に、ロボットが座ったような状態でありました。「動くのだろうか?」と見回していた一人が、「何か書いてある」とロボットの背中の紙を剥がしました。


南海トラフに備えて、東京一極集中を避けるために政府機能を分散させるとしてコツコツと、(一部の国民はこっそりと表現していた)施設ができたのは2051年のことでした。
その場所をどこにするかで紆余曲折が続いてなかなか決定しませんでした。流石に利権がらみの地域選定が避けられたのは奇跡というより、自然災害に見舞われ南海トラフの危険性が迫っていたからという方が正しい、と誰もが思っていました。東京が被害にあわないという保証はどこにもないと誰もが感じるほど、日本各地で、世界中のどこかで災害は起きていました。日本では一つの被害の復旧が終わらないうちに次の被害が起こるという状態で、誰もが安全神話などないと自覚する状況になっていました。生活の拠点と「いざという時」の住まいをと、別荘というより第二の自宅を田舎に求めるという人たちも出て来ていました。過疎地が急に目をつけられ、再び投機の対象になることもありました。
政府ははっきりとは言えないまでも、断層がない、火山がない、何より原発から遠い、誰もが納得するところとなると限られていました。国民の誰もが、南海トラフや大規模な自然災害は政府機能や企業が集中する都心も避けることができないと知ったからでした。折に触れてシュミレーションされる都市の災害の放送回数も増えていました。
広大な土地が政府により買い上げられ、道路はもちろん空港さえも備えられた広大な土地が出現したが、防衛上の観点からと政府が公表する部分・時期にのみ公にされました。
「格別里」という言葉がささやかれ始めたのは、公表されない部分があると知ったからでした。隠そうとすればするほど人は知りたがり、現実味を帯びて来るのでした。それは、政府関係者や企業のトップの家族の住居も併設されたからでした。政府に言わせるとそれは、企業が同時に開発したもので、政府のいう政府機能の分散化とは別物である。強調すればするほど「ありえない」ことなのです。国民が知った時にはもはや遅く、日本の中にもう一つの国ができたようなものでした。政府機能が移転する前に、まずは付帯する住居部分に住民を移住させることが図られました。どちらかと言えば批判される地に進んで住もうという人はいませんでした。まだまだ、楽観的安全神話に慣れている人たちが多いのです。
河望(かわもち)総理の父母もそこに住まわされました。ここに住み始めると、外界に出ることは難しいと思い知らされました。そこは別世界、映画というよりアニメの世界だと二人は思いました。
河望総理の父は熊本空港のそばに広大な原野を持っていた家に産まれました。熊本地震の後、断層がない場所と言われ住宅会社が数社入って土地を整地し、新興住宅地に変貌しました。被災者を助けるためとの美名の元に瞬く間にそれは勧められました。「地震太り」と陰口を叩かれた中に父は小学校、中学校を過ごしました。子供ながらに他人の生活環境の上昇変化を受け入れられず、悪意を持った言葉による攻撃で憂さ晴らしをする「大人」がいることを知らされました。そしてここには住みたくない、人と関わらないで過ごしたいと強く意識したのでした。家を離れたくて学者の道に進み、私立大学の教授の職を得ていました。母はそんな父の葛藤を知っていた同級生でした。田舎の大学でまあまあ無難に勤めて定年になって故郷に帰りました。熊本地震のあとにあれほどの人口を誇った住宅地も空き家が目立つようになっていました。誰も、地震太りなど知るものはいませんでした。総理になったのはそんな二人の一人息子でした。素直ないい子でしたがただ、ひっそりと過ごしたがる父の生き方には反発していました。河望氏に見込まれて一人息子なのに養子にいってしまいました。お嬢様育ちの気のいい美人の嫁にあったのは数回しかありません。二人が出不精だったのが原因ですが、誕生日、父の日母の日、盆暮れの挨拶は欠かしたことはないけれど、顔を合わせられないのはやはり物足りなく寂しくおもっていました。或る日突然、引っ越すように連絡して来た時には驚き呆れましたが、総理の親が率先して住んで欲しいと言われて、拒否することはできませんでした。


広い敷地、段差のない家、アニメ映画の主人公になったような生活に戸惑いました。すべてのことを、人型に近いロボットがやってくれるのでした。天国のようだと思ったのは数日で、姥捨山に他ならないと分かるのに時間はかかりませんでした。
一緒に住み始めて数日で二人の習慣をインプットして、到り尽せりでありながら、健康面でもチェックしてくれます。畑仕事で作物を育てたいと呟けば、広い庭の一隅にスペースを確保し必要なものは手配して準備してくれるのです。ロボットには、飼っていた犬が太郎だったので、次郎と名前をつけました。ロボットは戸惑ったような気配を見せたような気もしたものの、呼ばれると返事をするようになりました。個々の生活に慣れて来ると、時間を持て余すことがいちばんの苦痛になってきました。「外国に旅行に来たようですね」という妻容子の言葉に「そう思う事にしよう」と修は答えるのでした。
二人の共通の趣味は登山でした。年をとって高い山に登ることはなくなりましたが、九州の山の花に合わせて登っていました。足腰の弱るのが嫌で山に登りたいと言っても「許可できません」の一点張りです。外部との通信は全てロボットを通さなければなりません。判断は即座にできることと、「時間をください」の二種類です。外部との接触さえしなければ大抵のことはできましたが、隣の人とさえも出会わないのは異常なことでした。テレビも見れます、映画も見れます。旅行に行きたいと言えば、スケジュールを立ててくれます。ここに来るまでのように、急に思い立って何処かに行くということはできないのです。
広い庭は、たくさんの樹木で囲まれていましたので、隣との境界さえわかりません。二人は、その境界探しを始めました。どの方向に行っても隣の家には行けません。ブロック積みだったり、フェンスだったり、堀だったりがあり、行く手を阻むのです。塀に沿って歩いて行くと高台にでます。そこに木製の見晴台を作りました。三ヶ月ほどかかったのですが、それは楽しい時間でした。そこまでは規制されていないと見えて、次郎は準備してくれました。二人はよくピクニック気分でこの上でお弁当を食べるのでした。登ると、木々のはるか向こうに頑丈なビル群があります。そこが首都機能を移転させる予定の箇所なのでしょうが、あまり人の気配はありません。あちこちに平屋の住宅が点々と見えるのは、自分たちと同じように生活している人たちでしょう。平屋なのは、地下室があるからです。そこに備蓄されているものの種類の多さと量の多さに二人は驚きました。太陽光発電、風力発電、地下水の水槽があるのです。冗談抜きに空恐ろしくなりました。これほどの備えが必要な時が来るのかと。


「地震じゃない」と真っ先に気づいたのは容子でした。テレビを見ていた修に、お茶の準備をしていて立っていたからです。修は、ソファーに寝転んでいたので「そうか」と振り返りました。その時、テレビ画面がパッと消えました。「危ないです」次郎が大きな声を発しながらやってきました。三人は固まって抱き合って座り込みました。「この家は大丈夫です」次郎は短い手で二人をかばうようにしています。容子は「次郎がいるから安心ですね」
これまでも地震情報が無いわけではありませんでした。南海トラフ巨大地震が来る確率が毎年上がるといわれても、それにさえみんなが慣れてしまってきていました。首都機能の移転の枠組みはできていても、移転して来ていなければ意味がありません。指示や決定を下せる人がいない組織は烏合の衆と同じです。誰もが責任を取りたく無い、状況がわからない状況では動きようが無い、言い訳はどれだけでも出てきますが、そんなことをやっている無駄な時間はないのです。
情報が一切入らなくなりました。さすがの次郎もお手上げです。こちらにはほとんど被害らしきものはありませんが、肝心の東京が被害を受けているらしいとしかわかりません。次郎は二人が安全に健康に生活していくことだけを目的にしているのです。情報が入らなくとも、自家発電や給水を心がけています。二人が意気消沈していると、放射能の数値を計測し、外出を促し食料の備蓄具合に合わせた食事方法を勧めます。「我が子より次郎が私たちのことを考えてくれますね」と容子は弱音を吐きます。一ヶ月、三ヶ月、半年と経つのに外部からなんの連絡もありません。徐々にここが一般の社会から取り残された地であると、生きていくことさえ困難な地であると分かるというより諦めの境地になって来ました。

物語の世界が現実になって来ました。「お父さん、私たちは生き延びても社会の役に立つことはできません。けれど、次郎は死ぬことはありません。こんな楽園みたいなところを作っても、社会の中の一員でないなら生きていく意味はありません。そのことを『総理』にわかってもらうために、次郎を助けることを考えましょう」「次郎は自分だけが助かろうなんてこと絶対しないよ」「分かっています。だけどたった一つだけ方法があります」「エネルギーの補給を立つ」それは次郎と初めてあった時次郎が言ったことでした。「もしも私がお二人の生活に必要がないと思ったら、背中のボタンを押してください。エネルギーダウンして動かなくなりますから」二人は思い出していました。「たぶんそれをやろうとしても次郎は察しているような気がするよ」「私もそう思っています。次郎は私たちのことだけを考えています。だけど、私たちのことは伝えないといけないと思います。同じような目に合う人を出さないためにも」容子の言葉に修も頷きました。
ある日、修が足をくじいてしまいました。木ノ実を取って食料にしようと二人して、庭に植えたケンポナシの身を拾っていました。次郎が自分がするというのを「運動を兼ねてやるからいいよ。次郎もエネルギーの消費を控えなさい」という言葉にしょぼんとして見えました。「あーっ」という修の声に次郎は駆けて来ました。「おとうさん、大丈夫ね」容子も修に手を差し出しました。「おばあさん、僕が力強いです。おじいさん、僕の背中に乗ってください」次郎は二人が何かしそうな気配を感じて距離を取っていましたが、不測の事態にいつもの対処の方法をとってしまいました。「すまないねぇ」修は次郎の背中におぶさるようにして停止ボタンを押しました。「次郎、すまないけれどしばらく眠っていてちょうだい。誰かが助けに来てくれるまで」
二人は、これまでの経過を思い出しながら綴りました。そして封筒を幾重にもして入れると次郎の手に握らせました。

エピローグ
「ここに来てくださってありがとうございます。このロボットは、動力源がないだけで壊れてはいません。これを読まれた方は、動けるようにしてやってください。次郎(ロボットの名前です)には大変世話になりました。私たち人間は死を免れることはできませんが、次郎には次の家族と平和に暮らして欲しいです。」と背中の紙にはそう書いてありました。手に握っていた分厚い封筒には長い文章の後には「2052年11月5日 田之倉修 容子」と署名がありました。

「ここは総理のご両親が住まわれていたのではなかったのですか」「総理は、河望氏に強く望まれて養子になられたんだよ」訳知りの一人が言いました。「持って来たバッテリーで充電してみます」みんなが見守る中に充電が進み、人型ロボットはあちこちに様々の色が点灯しました。第一声は「おじいさんとおばあさんは私を助けるために亡くなられました」次郎は起きたことを冷静に語り、手に持っていた二人の手紙も雄弁に語りました。

河望総理は届けられた両親の手紙を何度も読み返し、いつまでも両手に握っていました。
  


Posted by 小さな魔法使い at 10:46Comments(0)つづりかた小説もどき

2020年01月09日

熊日記事の振り返り④(2019年10月25日掲載分)

平成25年フットパスの全国大会「全国フットパスサミットin美里」を開催しました。
フットパスをすすめてコースを作ると全国から歩きに来る人がいるということを知っていただきたかったからです。
全国規模の大きなシンポジウムを開くのは大変ですが、九州ハイランドガイド協会(当時は九州ハイランド観光ガイドインストラクター協会)で、山都町・五ヶ瀬町・椎葉村・美里町の4会場で毎年開催した経験がありました。熊本県と宮崎県と行政区が違うところでの開催は胃に穴があくほど大変でした。

それに比べると「美里町の方に、関心のある方にフットパスを知ってもらう」ということを目的に自主的に開催するので私的には楽でした。
全国大会までは「大変ですね、頑張って!」という人が多かったのですが、「井澤さん、楽しかった〜」会場の文化センターのスタッフではなく、翌日の歩くコースに住んでいる方でした。
「沖縄に人と話した」「北海道の人はキンカンや柿の木に驚いていた」と会う人ごとに話しかけてくれました。
直接出会うことのない人にも歩きに来た人の感想を知ってほしいと思いました。それが文集みさとへの寄稿でした。


全国大会は参加申し込みの出足は遅く心配しましたが450名の会場が満員になりました。
準備に行くと、書道教室の書が舞台上にありました。全館借り上げているので片付けるスペースがありません。横断幕など墨で書いてもらっていたので、かえって舞台に並べてもいいだろうとあえてか悪さず展示しました。今ではそれもいい思い出です。


美里フットパス協会だけでは人手が足りません。役割分担、一人一役、職種・団体多種多様で連携して乗り切りました。

この時、講演やパネルディスカッションも行われましたが、会場の地域の人の言葉の方がみなさんの心に残ったようです。
「フットパスがあるので婆婆も出番があります!」労るという名目で表舞台から排除していたのかもしれません。縁側カフェや食の体験のおばちゃんたちの生き生きしていること。

やはり
フットパスは地域を元気にする魔法です  


Posted by 小さな魔法使い at 19:37Comments(0)フットパス

2020年01月09日

熊日記事の振り返り③(2019年10月18日掲載分)

フットパスコースを作るときには
コースの維持管理のことを考えます
ただ面白そうで道を選んでは
夏場の草が茂る季節や、大雨、台風の後など
いつでも誰でもセルフで歩けるコースにはなりません
コースの維持管理がされる道を選びます
地域の方が「歩いていいよ」の道をつなぎます

歩いての第一声は「パンクしたつかい?」でした。
「パンク?」「故障?」の声かけは始終ありました。
その時思ったのは、私が歩いてもこれだけ声かけられる
それだけ歩く人は珍しいのだから
歩く人たちがいるのは注目される!でした


それなりの歩く格好の人たちが生活圏を歩きます
作業していたら嫌ではないかと心配していたら
「こんにちは」「おじゃまします」「ありがとうございました」
の声に応えて「またおいで!」という言葉が返って来ます


フットパスコースを作らなければ私も歩かなかった道
イベントで歩きに来た人たちは驚きます
「本当にここ歩いていいんですか?」
やっぱりこの道を選んで良かった〜です


一番楽しいのはコース探しをしていた時です
「パンク」の声も聞かれなくなってフットパスがいよいよ知られてきたなぁ
コンビニで買い物をしてレジで支払いしているときに
後ろからひょいとスタミナドリンクが差し出されました
振り返って見ると知らない男性でした
「毎日頑張ってるね。飲みなっせ!」と言ってくれました
家の中からヤクルトをくれたり
庭先のキンカンをくれたり
あんなに広かった美里町が歩くことで急に狭くなりました

コースのある地区にフットパスではない用事で行って
「歩く人は見かけますか?」と聞きます
「うん、まあそこそこ歩きよらすよ」
そこそこが何人かは分かりませんが歩く人が少ないコースだと思っていたので
その答えは嬉しかったです  


Posted by 小さな魔法使い at 00:36Comments(0)フットパス

2020年01月05日

熊日記事の振り返り②(2019年10月11日掲載分)

「なんでフットパスを続けるのですか?」とよく聞かれます。
「楽しいから」と答えますが、端折り過ぎだとは分かっています。
自分だけが楽しいのでは楽しいとは言えません。
コースのある地域の方も、歩きに来た方も楽しいから、私も楽しいのです。
コース探しで地域の方と歩いているとそっと教えてくれる人がいます。
その方にはとても重要な物なのでしょうが
世間一般には大したことはないと思われている物です。
「よく残しておいてくれましたね。ありがとうございます。」
大事にして来たその方の想いも含めて素直にその言葉が出て来ます。(私は歴史がが好きなんです)
その時のはにかみながらも満面の笑顔、この笑顔を見たくて私はフットパスをやっているのかもしれない!とも思います。
熊本日日新聞2019年10月11日掲載
地域の風景は地域に住む方たちが生業の中で
様々な用途に使うことで維持して来ました。
山都町津留は緑川の本流と千滝川に挟まれた地
高低差によって、農地と住宅地が住み分けされています

緑川の支流筒川の湾曲部の馬蹄形の農地
旧豊富小学校跡、現筒川荘があります。

農地として使い続けることでこの景観が残っています。
棚田の奥に住まいを構え背後に薪炭林として使っていた里山
「日本の原風景ですね」という言葉がこぼれます。

稲作には「水」が欠かせません。
どの地区でも土用の時期にお祀りをします。
水の恵みと水難防止の藁で作ったタコと呼ぶお供えや
お神酒を入れた小竹で作ったカケグリ
累々と重ねて来た地域の祈りの姿に感謝します。

これらの生業の場を歩かせてくれるのは「Walkers are Welcome」にほかなりません。  


Posted by 小さな魔法使い at 21:08Comments(0)フットパス

2020年01月04日

熊日記事の振り返り①(2019年10月4日掲載分)

2019年10月から毎週金曜日、熊本日日新聞の夕刊の「一筆」というコーナーに
フットパスに関することを書かせていただきました 
長く書くのは得意なのですが、文字数が限られているのは難しいですね。
なぜか、シナリオを読むのも苦手です
熊日担当の津留さんが優しくて(?)サポートしてくださって
書きたいこと、伝えたいことが多すぎて
文字数にジレたり、諦めたりでしたが
12月27日(金)に終えることができました。
熊本日日新聞2019年10月4日掲載

9月21日(土)美里フットパス遠野コースイベント
彼岸花ロード

彼岸花の季節にイベントを開催していますが、台風の時期でもあり
2年ぶりの開催でした。
岩上の小道
コース上にある励徳小学校にも許可を得て寄り道しました。
ここは砥用東中学校の跡地です。
中学校時代地域の方が寄付した大木が残っています。
セコイアやハコヤナギ、大王松などです。
参加者には励徳小学校に勤務されたことのある方もいました。
砥用東中学校時代の卒業生もいて、思い出話に花が咲きました。
「昔は茶畑が広かったのに・・・」
裏門の坂
岩上地区の方が今年初めて縁側カフェを担当してくださいました。
朝から曇り空だったので、公民館の縁側ではなく屋内です。
縁側カフェin岩上公民館
一緒に食べるから美味しい
地域の人が自分の畑で栽培して、地域の人が作る強度のおやつ
飯だご・石垣だご・ガネ揚げ、栗、柿、煮しめ、漬物
「あるもんで作ったけんね!」
最高の美味しいおご馳走!なんですよ!
食べながら弾む会話
参加者全員が一言ずつ感想を述べる
地域の方も感想を述べる
「ありがとうございました、とっても美味しかったです」
「よっかった〜またおいで!」
全て手作り

お腹を満たして地域の風景を愛でる
色づき始めた稲穂に彼岸花の朱が映える
田んぼの中の道、集落の中の道、草切りされて気持ちがいい
村の中の小道
地震で迂回路を通っていたところが復旧工事が終わって通れるようになっている
下見の時に地域の方(大工さん)が「手すりもつけといたよ」という小さな橋
美里フットパスを支えているのは地域の方達を実感する、できる、嬉しい。
手作りの手すりのある小さな橋
写真を撮ったり、お寺や祠に寄り道したり
柿を撮らせてもらったり
楽しい秋の1日でした。



  


Posted by 小さな魔法使い at 23:19Comments(0)フットパス

2019年08月01日

お茶うけ

静岡県大沢地区
おおさわ縁側カフェ
お茶うけは3品と決めています
静岡はお茶どころ
まず お茶が美味しい
笑顔がその味を引き立てます
  


2019年07月21日

臼杵石仏公園の蓮

大分県日出町に行く途中寄り道
「蓮の花の季節にどうぞ!」
そう誘われると機会があれば
から、機会を作る寄り道になる


花まで遠い
丈が高すぎて花が見えない
蓮園とは名ばかりで花が少ない
そんなところが無きにしも非ず
ここは違う


駐車場も蓮園の近くに整備され
木道が整備され
蓮園も広い
花数も多く、昼前の時間だというのに


蓮園だけではなく
集落全部がすっきりとしている
みんな満足しているのだろう
行きあう人たちがみんな優しい


蓮料理も期間限定であるけれど
予約制
寄り道では時間に余裕がない
臼杵石仏は何度も見ているので
今回はパス


ここは寄り道ではなく
ここだけを目的に来たい  


Posted by 小さな魔法使い at 23:18Comments(0)フットパス寄り道 道草 たかざるき

2019年07月09日

梅雨晴れ間の怪

梅雨入りが遅い
今年はそんな年
水不足で田植えが進まない
一転
降り出したら止まない
球磨村に行く
高速道路が早いけれど
高速を下りてからの距離が微妙
球磨川沿いの219を走る
神瀬の長命水に寄り道

湧く水量が多すぎる
轟轟と水の音
長命水ではない

すぐ横の熊野坐神社の鳥居の奥で音がする
遊歩道があちこちにありそう
ほとんど歩いている気配はない

滝の上の歩道の入り口には鏡がそこかしこに取り付けられ
割れているのもある
歩道の橋の奥に人の気配か?
身振りは呼んでいるような?

意味不明の人の形
来るなの身振りとしか思えない
梅雨晴れ間とはいえ
水は轟轟
湿っぽくて不気味  


Posted by 小さな魔法使い at 16:27Comments(0)寄り道 道草 たかざるき